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        中国のシルク

                絹(きぬ)は、蚕の繭からとった天然の繊維。英語ではシルク(silk)。独特の光沢を持ち、古来より珍重されてきた。主成分は蚕が体内で作り出すたんぱく質?フェブロイン。蚕の繭から抽出された極細の糸を数本揃えて繰り糸の状態にしたままの絹糸を生糸(きいと)ともいう。
                中国は世界で絹を織った最も早い国である。その歴史は約5000年にも前にさかのぼり、殷、周(約3000年前)の時代にはすでに室内で山蚕を飼い、あざやかな刺繍をほどこした美しい絹織物を織っていた。「韓非子 喩老篇」の中にも殷の最後の皇帝、紂王が「錦衣九重」、つまり九重にもなる錦の衣を着ていたことが記載されている。この美しい絹織物は、中央アジア、そしてギリシャ、ローマに運ばれ、大いに珍重された。貴族たちの間では、絹を身につけることがステータスとなり、絹への需要は増すばかりで価格も高騰していった。これに商人達が注目しないわけはなく、彼らはキャラバンをつくり、競って東方を目指した。こうしてできた絹を結ぶ商路は、単に商路としてだけではなく、東西を行き来する主要な交通路として次第に使われるようになった。これがアジア、ヨーロッパ、さらに北アフリカをも結ぶユーラシア大陸の大道、すなわち現在言われているシルクロードとなったわけである。

        四川蜀錦
               肥沃な土地と豊かな資源で知られる四川省の成都は、2000年以上も前から手織りの織物技術を発達させていた。恵まれた気候と地形で古代から養蚕が盛んであり、そのことから古代この地方には蜀国という名がついた。“蜀”とは、元々蚕のことを示す漢字で、成都は古くから絹の産地として有名である。四川省成都で生産される錦織の蜀錦は、南京の雲錦、蘇州宋錦とともに、中国三大名錦に数えられる。
               漢時代(206B.C.-A.D.220)から、四川では色とりどりの絹織物が生産されていた。成都には皇族や高官の衣服を作る宮廷直属の織物局が置かれ、蜀錦の生産供給を管理した。この頃から、蜀錦はシルクロードを経てヨーロッパや中東に輸出されるようになった。また、日本や東南アジア各国にも広く輸出されていた。
               隋時代(581-618)から唐時代(618-907)には、変化に富んだ文様が生まれ高度な技術が発達した。この時代の王羲之による?蘭亭序?は唐代の蜀錦の技術の高さを示している。漢字を文様として巧みに織りだしたこの錦は、唐の太宗の李世明に献上して珍重され、“異物”として宮中に保存された。宋時代(960-1279)には錦院が設立され、大規模の工房では百五十の織り機を所有し、四百人が蜀錦の生産に従事した。宋代、成都では毎年67万匹の蜀布が献上され、その内7865匹が上等な蜀錦であった。
               明時代(1368-1644)、清時代(1644-1912)蜀錦は皇帝からの贈り物として、海外客人や高官に贈られた。当時蜀錦を受け取ることは、最高に名誉あることだったといえる。
               一つの蜀錦作品が完成するまでには、文様のデザインから織り機の設定、実際に錦を織り出すまで様々な過程がある。それぞれの工程には独自の技術が発達している。通常一つの織り機には、デザインを支持する係りと糸を操作して織る係りの二人の職人が必要であるが、実際には更に多くの人々の努力と協力によって蜀錦は完成する。繊維が細く、織りあがりのキメ細かさが蜀錦の特徴である。
               蜀錦の柄や技法、品種は、様々である。唐代の蜀錦の図案は、格子、蓮紋、亀甲紋、数珠、鳥、動物など豊富である。宋代元代には更に灯花錦、盤球、翠池獅子、雲雀,百花孔雀、宜男百花、如意牡丹などの図案が生まれた。
               主な品種には、雨絲錦、方方錦、舗地錦,散花錦、浣花錦、民族錦、彩暈錦などがある。雨絲錦は、錦の表面に白と他色で細かい雨のような線を表した柄である。線は細から粗へ白から彩へと交互にグラデーションをつけて変化し、現れた明るい雨の上に各種の図案で装飾される。方方錦は単色の格子柄の生地をベースとして、その格子の中に色とりどりの花紋などの図形が浮かぶものである。舗地錦は錦上添花とも呼ばれ、幾何学模様や小さな花紋が集まって更に大きな柄を形成し、柄で埋め尽くされた豪華な錦である。散花錦は柄が全体にびっしりと散りばめられたものである。
               蜀錦の精巧な文様と伝統技術は国内外で高く評価され、これまでに多くの栄誉ある賞を受賞している。蜀錦は1908年、ロンドンで開かれたパナマ国際博覧会で金賞を受賞し、1917年東南アジア万博で国際賞を受賞している。また、1939年ニューヨークで開かれた世界万博では“東洋の美”賞を得ている。1980年の故宮改装の際には、膨大な量の蜀錦が使用された。
               蜀錦は、四川で生まれ発展した伝統工芸であり、成都は?錦城?や?錦官城?の美しい通称で親しまれている。現在も優れた中国伝統工芸のひとつとして、また成都の宝として多くの人々から愛されている。
        南京雲錦
               江蘇省の南京市は中国で最も精巧、高価な錦織物の一つ、雲錦の生産地として知られる。柔らかで繊細な雲に似た文様が特徴の為、この名前がついた。成都の蜀錦、蘇州の宋錦、広西の壮錦と並び、中国四大名錦の一つに数えられる。
               雲錦の発達と南京市の発展の歴史には密接な関係がある。南京の絹織工業は、東呉(222-280)の時期に始まり、東晋(317-420)末期には重要な工業の一つに成長した。雲錦は三国時代(220-265)からすでに存在していたとも言われるが、晋代417年、朝廷により織錦を専門管理する「錦局」が置かれた事により、“雲錦”が正式に誕生したとされている。宋時代(960-1279)には、より色彩豊かな錦織りに変化し、元時代(1271-1368)には金銀の糸が織り込まれ、皇族、貴族に寵愛されるようになった。
               元、明(1368-1644)、清(1644-1912)の時代には、皇室指定の貢物として献上されるようになり、歴代皇帝は南京に管轄下の錦織局を置き雲錦の生産を管理した。一時、民間人は雲錦を買うことさえ許されなかった。皇帝の龍のガウン、皇后の鳳凰の衣服を始め、座布団や、枕、シーツなどの宮廷の日用品は、豪華な雲錦で装飾された。皇帝のガウンには、金銀の糸で龍が織り込まれ、一着を制作し終えるのに10年以上もかかったという。金や銀の金属色の糸は、特殊な高等技術で染められた。雲錦は発展、繁栄を続け、康煕、雍正の頃に最盛期を迎える。秦淮河一帯には雲錦の工房が集まり、三十万人の人々が雲錦の生産に従事し、三万の織り機があったという。日夜休まず織り機の音が鳴り続け、毎日膨大な量の雲錦が生産された。
                雲錦工芸は南京最大の手工業へと発展した。当時、雲錦の切れ端は、同じ大きさの金に値するといわれ、裕福な人々は富と地位の象徴としてこぞって雲錦を買い求めた。日本でも有名な、「衣錦還郷」、すなわち「故郷に錦を飾る」とは、成功を納めて故郷に帰ることをいうが、錦が非常に高価な品物であり、民衆の憧れであった為である。
                南京雲錦の生産には、少なくとも二人の職人が必要である。通常、幅1.4メートル、長さ5.6メートル、高さ4メートルの巨大な木製の織り機が使われる。一人は織り機の上に立ち糸の行き来を指示して模様をコントロールする。もう一人は織り機の下方に座り、糸を交差させたり、色が変わるごとに横糸を切ったり、実際に“織る”作業をする。一つの錦織物は、約1万4千もの糸の組み合わせで出来ており、大きく複雑な製品の場合、一日5、6センチしか織ることが出来ず、長い年月を必要とする。熟練の職人によって精密に計算され、見事に編み出される繊細な文様は、現代の技術をもっても機械で再現することができない。
                今、南京雲錦が衣服や服飾に使われる事は極めてまれである。多くは、クッションやテープなどの小物として生産され、中国伝統工芸品の中でも最も高価で貴重なものの一つである。
        蘇州宋錦
               宋錦は宋代に生まれた絹織物工芸である。主な生産地が蘇州である為、蘇州宋錦の名でも知られている。蘇州は桑の植栽と養蚕に適した肥沃な土地と温暖な気候に恵まれ、古くから絹の生産地として有名であった。蘇州宋錦は、文様が精巧に織り込まれていて色鮮やか、コシがあって柔らかい質感で、南京の雲錦、四川の蜀錦とともに、中国三大名錦に数えられる。明清時代以降に生産された倣古宋錦、宋式錦を含め総称して宋錦と呼ぶ。
               蘇州宋錦の源は、春秋時代(771-403B.C.)にさかのぼる。江南呉国の貴族は絹織物を好み、すでに日常生活上で多くの絹製品を使用していたという。蘇州の絹織物は時代の流れと共に発展を続け、宋時代(960-1279)には成熟した技術を持つようになる。蘇州は国内絹織物生産の中心地となり、独特の美しさをもつ今までにない新しい絹織物、“宋錦”が生まれた。
               蘇州宋錦は、衣服や装飾品としてだけでなく書画の表装としてなど、40を越える品に使用された。特に表装として多くの華麗な絹織物が書画と共に保存されたことは、宋錦の名を世に広め、また後世にその存在を伝える要因となった。
               明清時代には蘇州織造府がおかれ、宮廷での需要と民間への販売で宋錦の生産は拡大する。特に、康煕、乾隆年間(1662-1795)は、宋錦の全盛期であった。乾隆の時代に蘇州で生産された「極楽世界織成錦図軸」は、宋錦の最高峰芸術作品として現在北京故宮博物館に貯蔵されている。幅2メートルのこの大きな宋錦には、表情、動作の違う278の人物像と共に、宮殿や、池、樹木、空を漂う雲、花々や鳥などが表現され、その超越した芸術性と技術をおしはかることができる。
               宋錦の生産は、絹糸を染める事にはじまり織物として完成するまで20以上の工程を必要とする。織り機で縦糸と横糸を巧みに交差させて様々な模様を織り出し、更に何色もの色糸が縦横を走って、豊富な色柄の錦織りが生まれる。この技法は後に雲錦に吸収され、現代の錦織技法の基礎となっている。
               宋錦は、織物の構造、技術、材料、布の厚さなどによって、大錦、匣錦、小錦の三種類に分けられる。大錦には更に重錦と細錦の種類があり、真絲宋錦、交織宋錦、真絲古錦、倣古宋錦などはすべて大錦に分類される。宋錦を代表する最も重要な品種が重錦である。金銀の糸をふんだんに使いずっしりと重く、贅沢な織物だ。主に宮廷へ納められる大きな壁掛けや家具、有名書画の表装などとして使われた。匣錦は一般書画や掛け軸、巻物の表装に使われ、小錦には月華錦、万字錦、水浪錦などが含まれ、小さな敷物や箱などの小物に使用された。
               宋錦の図案は、幾何学的な文様を骨組みに様々なモチーフを組み合わせてできている。草花や、亀甲紋、渦巻き、八吉祥(法螺、法輪、宝傘、白蓋、蓮華、宝瓶、金魚、吉祥紐(盤長))などが典型的な柄である。
               宋錦は、高い芸術性と実用性を持ち、現在でも掛け軸の表装として使われている。千年の歳月の中で進化を繰り返し、なお古来の雅やかな風格と独特な魅力を保持して、国内外から多くの賞賛を得ている。しかし経済成長に伴い、伝統宋錦の生産は事実上停止し、職人や工具、伝統図案は消失の危機にある。早急な問題解決が課題となっている。
        広西壮錦
               中国最大の少数民族である壮族(ちわんぞく)は、中国広西区が原住地である。壮族が織る壮錦は、民族文化を反映した美しい文様と丈夫な品質で知られ、南京の雲錦、四川の蜀錦、蘇州の宋錦とともに中国の主要な絹織物の一つである。
               壮錦は地元で生産された綿と絹の糸を使い、手動の織り機を使って織られる。綿糸を縦糸に、色とりどりの絹糸を横糸にして、さまざまな文様が織り成される。小さな伝統の織り機は竹製で、竹篭機とも呼ばれる。織り機に設計されている“花篭”を使って文様図案が織り出されるのが特徴である。
               壮錦の文様となる図案は、菱形や格子など幾何学的なものが多い。図形の中に動植物が浮かび上がるものや、大小様々な幾何学模様がびっしりと装飾された格調高いデザインもある。雲紋、水波紋、万字紋、菊花紋、回紋などの伝統的文様や、毎日の生活を反映した草花、動物、蝶、鳳、龍、獅子、鯉などのモチーフを規則正しくちりばめたものなど、種類は豊富である。
               壮錦は、赤、黄、藍、緑を基本に多くの補色を使用し、色の対比が強烈で鮮やかな色合いが好まれる。赤は主に背景色に使われ、黄、藍、緑が鮮明に文様を表現する。十色以上の色を使用した多色使いの壮錦もよく見られが、色合いや分量が絶妙で、表情ゆたかで上品な錦となっている。壮錦の色彩の特徴は、素朴で変化に富み、鮮やかで上品、色の対比は鮮明である。まるで、壮族民の情熱的、爽快、勇敢で素朴な性格を現しているかのようである。鮮やかな壮錦は、寝具、鞄、エプロンや前掛け等の服飾雑貨、壁掛などに使われている。
               壮族は中国で最も早くから紡織を発達させた民族の一つと言われている。漢時代(206B.C.-220A.D.)、広西ではすでに織錦を生産していた。広西の羅泊湾漢墓から、漢代のものと見られる錦の断片が発見されている。壮錦は歴史と共に単色使いの単純な図柄から、色彩豊かで複雑な文様のものに変化した。黒地に橙色で回紋が入った羅泊湾漢墓の布片は、壮錦の前身となるものである。
               “壮錦”が世に広く知られるようになったのは、宋代(960-1279)に入ってからである。壮族の紡織業は発展して、麻糸や綿糸を合わせた錦が作られるようになり、明代(1368-1644)には皇帝への貢物としても献上されるようになった。宋錦は、明清代、宮廷だけでなく民間の人々の間でも広く親しまれるようになった。



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